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「ゼロ年代の研究者・決断主義アカデミズム」 

(西嶋)
 二〇〇九年は、ゼロ年代最後の年である。評論家宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』(、二〇〇八年)において、九〇年代後半の『新世紀エヴァンゲリオン』やセカイ系に象徴される、「引きこもり/心理主義」と「~しない」という倫理に対比させて、ゼロ年代の作品を『バトル・ロワイヤル』や『DEATH NOTE』に象徴される「引きこもっていたら殺されてしまうので、自分の力で生き残る」という、ある種の「決断主義」的な傾向を持つ「サヴァイヴ感」を前面に打ち出したものとしている(宇野二〇〇八・一三~二六)。この「サヴァイヴ感」あるいは「決断主義」の問題は、宇野が取り扱ったサブカルチャーやポップカルチャーの作品群だけでおきているわけではない。それはアカデミズムにおいても、まさにおこっている事態なのである。

 「大きな物語」崩壊以後、アカデミズムは、政治的活動や社会へのコミットメントを控えることにある種のモラル、「~しない」という倫理をおいてきた。私がここで想定しているのは主に人文学(特に歴史学)なのだが、このような流れはマルクス主義の反省であり、再び象牙の塔へと撤退することによって揺らいだアイデンティティを取り戻そうとしたかのようにも思える。しかし、である。個々別々の何の役に立つかもわからないようなマニアックな研究が生き残れるほど現在は甘くはない。水月昭道は『高学歴ワーキングプア』(光文社新書、二〇〇七)において、文科省の方針によって大量に増えてしまった博士と少子化による働き口の喪失によって、アカデミズム、特に若手研究者が深刻な危機に直面していることを指摘している。アカデミズムの正当性が前提とされる時代はもう終ったのだ。水月が次に『アカデミア・サバイバル』(中公新書ラクレ、二〇〇九)というアカデミズムにおいて生き残るためのマニュアル本を刊行したことに象徴的なように、ゼロ年代はアカデミズムにおいても「サヴァイヴ感」と「決断主義」が緊急の課題として自覚されてゆく過程だったのではないだろうか。

 ポストモダンの相対主義によって「~しない」という倫理が作用し、社会との接点を見失いながら象牙の塔へと引きこもりつつあったアカデミズム。そうしていたらポストモダンは学問の優位性や正当性をも解体してしまい、社会にとって必ずしも必要なものとは思われなくなってゆく。「(象牙の塔に)引きこもっていたら(博士として飼い)殺されてしまうので、自分の力で生き残る」しかない、という「サヴァイヴ」感は若手研究者において共有されていることだろう。
 この鼎談の登壇者である西嶋(専門:民俗学)とマリン(専門:政治学)は、ともに今年大学院一年目の研究者かけだしであり、深津(専門:文学)は大学院に一〇年在籍した後、非常勤講師をかけもちする「高学歴ワーキングプア」的な生活をおくっている(?)。この三人の研究者はいったいどのようなかたちで自らの研究を行おうとしているのだろうか。ここには三つの問題がある。一つは社会の問題。現代社会をどのようにとらえているかどうかである。二つめは自分の問題。自分の人生をどのように生きようとしているかというものである。三つめは研究の問題。これは、社会との関係のなかで自分の研究をどのように位置づけようとしているかという問題であり、また人生のなかで自分の研究とどのように関わっていくかという問題でもある。

 研究者というポストモダンにおいては至極マイナーな専門職の話など一般性あるいは普遍性を持たない、と考える人もいるだろう。それは一面であたっているが、一方で研究者は、なんでも自分でやらねばならない一人自営業者のような側面もある。綿密な計画を立て、それにしたがって本を読み、調査の段取りを整え実行し、調査結果を論文を書くことで生産をし、様々な場所でプレゼンや売り込みを繰り返す営業活動を行い、新たな仕事を確保する、ということを一人で行う。自分で自分をプロデュースしなければならない研究者は、象牙の塔に引きこもれているときならいざしらず、現在においては社会との接点を常に考えねばならないし、人生プランにおいても確固たるものがなければサヴァイヴできない。研究者をもってゼロ年代と社会とそれへのコミットメントを考えることは、必ずしも突飛なことではないだろう。
 さて宇野は、最終的にゼロ年代をどのように生き抜こうというのだろうか。
  
  「何に価値があるのか」を世の中が与えてくれない時代――そのかわり、いまだかつてなくある意味自由な現代という時代を生きる私たちは、「生きる意味」を自分で獲得して生きていかなければならない。そう、決断主義の生む再帰的な共同性と、その共同性を規定する小さな物語から、人間は逃れられないのだ。無自覚にコミットすれば、誤配を会費するための排除の論理――他の島宇宙を攻撃し「内部」と「外部」を隔てるための暴力――が発生するこの小さな物語に、どう誤配と柔軟性を確保し、開かれたものにしていくか。それが私の考える決断主義の克服である。(宇野二〇〇八・三三〇)

 「~しない」倫理のセカイ系から、サヴァイヴ感の中の決断主義へ。ポストモダンの相対主義から、カルチュラル・スタディーズのコミットメントへ。これらの問題を生き抜く術として宇野が出してくるのが、相対性を前提にした再帰的な決断主義はとるが、それを正当化することによって思考停止するのではなく、他者との対話と自らの変化を受け入れるくらい開かれたものにしていく、という極めて素朴なものであった。この宇野の結論は、研究者における研究においてはどのように消化されているのか、あるいは宇野の見解とは異なるパースペクティヴで社会をみているのか。三人の研究者の至極具体的で卑近な研究と社会と自分の話から、ゼロ年代以後をサヴァイヴするということを考えていきたい。


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「ロスジェネなんてぶっ潰せ」?(その2) 

「ロスジェネ論壇」によって、ことほどさように敵役を押し付けられた市場万能主義についてはその捉え方も含め異論があると思うので、鼎談での活発な議論を待ちたい。とくに、規制緩和を支持するまりんさんには十分意見を展開してもらいたいのだが、そのためのたたき台として、最後に、規制緩和=市場万能主義のもとでは、2人が話していた職業選択の動機、すなわち自己実現のためは、流動化どころか格差の固定化に繋がるのではないか、あるいはそれを正当化する体のよいイデオロギーとして機能するのではないか、という危惧をあらためて表明しておきたい(「素人の労働論」『ゲンダイモンダイ』のなかで、二人は職業選択(研究者志望)の理由に「自己実現」を挙げていた)。

たとえば、先に挙げた「正社員・スペシャリスト・派遣労働」の3タイプのうち、若者がどれを選べるか(どれしか選べないか)は、実はかなりの部分、親の年収や生活様式によってあらかじめ決められている。そこを隠して、「どれでも好きなのを選びな。でも結果は自己責任だからね。」というのが、市場万能主義を掲げるネオリベラリズムの詐術である。ネオリベラリズムは競争による流動化を強調するが、弱者保護の規制を取り払えば、「持てる者」が「持てない者」を駆逐するのは火を見るより明らかである。つまり結果的には、「持てる者」ばかりが保護される(ばかりか、さらに「持てる者」になる)。この意味で、ネオリベラリズムは、弱者を切る「自由」を正当化した強者保護のイデオロギーである。

ただし厄介なことに、ネオリベラリズムは、「持てない者」にとっても魅力がある。誰もが決定論的に無力である自分の姿は直視したくない。これはアイデンティティ=自尊心の問題に関わる。したがって、サラリーマン(正社員)生活は性に合わないからゴメンだ、というような理由を付けて、つまり、職業=自己実現という「幻想」を言い訳にして、少なくない数の若者が「自発的に」「自由な」(不安定な)派遣労働に組み込まれていく。しかし実際には、親の年収や生活様式に従って労働力の配分が行われているのである。

むろん、例外的なケースもあるだろう。「西嶋&まりん」の二人からは、「貧困層でも努力すれば奨学金をとって勉強を続け研究職に就けるはずだ」と反論されるかもしれない。二人には、自分がいま、人並み以上の勉強をしている、という自尊心があることも分かる(ここでも、自尊心の問題!)。しかし近年(後期資本主義)の貧困の問題は、「個人の努力」という規律訓練パラダイムではとらえきれないところにきているようにも感じる。偏差値が下のほうの学校で授業をすると実感するが、親の生活様式と食習慣が子どもの身体(技法)を規定している。彼らの多くは集中して勉強するだけの息が続かない。『アユラ』2号掲載の「食のベーシック・インカム」で西嶋さんが危惧していること、つまりジャンクフードの問題がすでに現実になっているのではないかと勘繰りたくなる。貧困と不規則な生活習慣が安価で高カロリーなジャンクフードへの依存を生み出し、それによって作られた身体(技法)はもはや奨学金を得て階層上昇するような身体ではなくなっている。ひと昔前のヨーロッパでは、貴族階級と労働者階級で体格が明らかに違ったといわれており、「貧困大国」アメリカでは、エリート層に比べ貧困層は明らかに肥満だというが、同様のことが日本でも起きつつある。そう考えると、「自己実現」できる職業として研究職を目指せる二人は親に恵まれてる。

だから、二人は自己批判しろ、ということではもちろんない。ただ、市場万能主義のもとでは、職業で「自己実現」できる自由、つまり、「正社員・スペシャリスト・派遣労働」の中から自分に適したものを選べる自由を享受できる層は限られているということ。いや、上記3形態には明らかな階層秩序(格差)が存在する以上、スペシャリストを選べる者が派遣労働を選ぶことはまずありえず、したがって労働の流動化は、流動化どころか階層秩序(格差)の固定化(再生産)しかもたらさないのではないか、ということを踏まえたうえで、では、どのようなシステム(条件)のもとでなら、職業選択と自己実現を結びつけることが(「持てる者」にのみ許される「利権」ではなく)誰にでも開かれたものになるのか、どのようなシステム(条件)のもとでなら、「自由」や「自己責任」という言葉を安心して使えるようになるのか、という問題を考える必要があるのではないか。

以下、そのための走り書き的な試案を提示するなら、市場万能主義が「持てる者」の保護主義である以上、公正な競争を実現するために、「持てない者」を保護し、底上げするための「規制」が必要である。具体的には同一労働同一賃金の原則、最低収入の保障が不可欠である。財源は法人税と富裕層への累進課税でまかなう。こう主張すると、大企業が海外移転し、日本の産業が空洞化するという批判を受けそうだが、片方で、ワーキングプアのルサンチマンは深刻である。秋葉原の連続無差別殺傷事件が代表的するように、それはまさにテロ(内戦)である。あるいは、「オレオレ詐欺」ですら、高度成長の恩恵を受けてきた世代に対するルサンチマンかもしれない(学歴のない20代~30代では、堅気の職業に就けないから、詐欺(まがいのこと)をしている、という開き直りの声を聞いたことがある)。

セキュリティの現代的モデルは、「いかに彼らを産み出さないか」ではなく、(生産の調整弁である)彼らを産み出し続けることを前提に、「いかに彼らから身を守るか」、もう一歩進めて、彼らが排除されているという事実を彼らに自覚させないまま、いかに彼らを排除するか、というところにあるのだろう。しかしこれは長い目で見るなら、国内の戦争(内戦)状態を激化させるだけである。そして、同様に長い目で見るなら、内戦状態の国で企業活動を行うのと、少なくともルサンチマンの滞留しない国で企業活動を行うのとではどちらが得なのだろうか。

消費社会論では前提だが、現代人はものを消費するだけでなく、イメージを消費する。自分がいま使っているデジカメやパソコンのプリンター(それは、正社員を使い捨てることで有名なロードサイド(郊外型)の量販店で安く買ったものなのだが……)が、派遣労働で働かざるをえないワーキングプアによって作られているという事実を知って、さすがに気持ちのよい者はいないはずである。

「ロスジェネなんてぶっ潰せ」?(その1) 

「ロスジェネなんてぶっ潰せ!」という物騒な(?)題を掲げたが、個人的には、「ロスジェネ、いいぞ! もっとやれ!」という立場からこの鼎談に参加する。

「ロスジェネ」というのは、ロストジェネレーションの略語で、「バブル景気」がはじけたあと、「就職氷河期」に学校を卒業した(卒業を余儀なくされた)、現在20代後半から30代半ばまでの世代全体、そのなかでもとくに、正社員になれず(あるいは、正社員になったものの続かず)、低賃金かつ不安定な「フリーター」生活を強いられ、貧困から抜け出せない人たちを指す。ただし、今回の鼎談でいう「ロスジェネ」は、直接的にこの人たちのことを指す場合もあるし、この人たちをめぐる論壇の言説、たとえば雨宮処凛や赤木智弘などの言説を指す場合もある。先ほど書いた、「ロスジェネ、いいぞ! もっとやれ!」という立場は、どちらかというと後者、いわゆる「ロスジェネ」論壇への支持表明である。

これを支持する理由は、現代の貧困を、アイデンティティ(自尊心)の問題として捉えた点である。現代は不景気と言われながらも仕事はある。ただしその仕事は派遣の単純作業で、現場からは(交換可能な)機械の部品扱いされ、低賃金のまま昇給しない(あるいはキャリア形成できない)ばかりか、いつ馘首されるかわからない。つまり、自尊心をズタボロに踏みにじられる状況に置かれている。しかしそれは「あなたがキャリア形成の努力を怠ったから悪いんでしょ?」と言われればそれまでで、事実そうした状況の、ワーキングプアと呼ばれる人たちほど、この「自己責任」の論理を内面化しているといわれる。ゆえに自分を責め、「引きこもり」や「メンヘル」にも通じる「生き難さ」の問題が生じるわけで、そういうふうに精神的に追い込まれた人たちに対して、「ロスジェネ論壇」はとりあえずの自己肯定(自尊心回復)を与えた。「悪いのは社会で、あなたではない」、と。そのうえで、ワーキングプアを社会問題化し、ワーキングプアの人々を、権利保護を請求する利益集団に組織しようとした点は評価されてよい。とくに、生活保護の申請の仕方や団体交渉の仕方など、ハウツー的な知識をインフォームした意義はきわめて大きい。

ところで、「ロスジェネ言論」において「敵」役となるのが、規制緩和とその根底にある、「際限なき」市場万能主義、ネオリベラリズムである。たとえば、最近の自民党内閣は、支持基盤(スポンサー)である経団連の要求に従って、(大企業の国際競争力を確保するため)法人税を引き下げ、(企業の人件費を低く抑えるため)労働者保護の諸規制を取り払うか大幅に緩和した。

終身雇用体制下では、公認の人生進路は(男性の場合)正社員1本だったが、規制緩和以降、労働力(労働形態)を「正社員とスペシャリストと派遣労働(フリーター)」に峻別して、「このなかから「自分らしい」スタイルを「自由に」「自己責任」で選んでね」、ということにした。あとでふれるように、「自分らしい」スタイルを「自由に」「自己責任で」選べるのは限られた層でしかなく、実情は、「夢を見させて、絞り取る」という、ディズニーランドまがいのことでしかないのだが、ここで確認しておきたいのは、フリーターはもはや、体制からドロップアウトした存在ではなく、使い捨ての労働力、あるいは生産の調整弁としてあらかじめ体制の中に組み込まれている、という点である。企業側からしてみれば、注文が多ければ派遣会社からフリーターを雇い入れ、注文が減ればフリーターを切ればよい。正社員ではないから、容易に馘首できる。

労働市場の流動化というのは、このように、企業側が労働力を自由に使い捨てにできることの制度化である。こうしたシステムのもとで、企業は史上最高収益を上げるいっぽうで、「ネットカフェ難民」が増加し、日本もアメリカ並みの格差社会になった。市場万能主義者は、企業の国際競争力が高まれば経済は右肩上がりに成長し、「ネットカフェ難民」もそのおこぼれに与れる、と主張するかもしれないが、規制緩和前の経済力が「貧困層1対富裕層10」だったとして、規制緩和後の経済成長で、貧困層が「1→1.1」になったとしても、富裕層が「10→100」になっていれば、貧困層はより惨めになるだけで、むしろ社会に対するルサンチマンは増すのではないか。いちばん最初に触れたように、現代の貧困はアイデンティティ(自尊心)に関わる問題でもあるからだ。

そもそも、この鼎談の起点となった「西嶋&まりん」による「素人の労働論」(「ゲンダイモンダイ」)では、「ロスジェネ」問題、ここでは若者のワーキングプア問題は、「就職氷河期」世代に固有の限定的なものという論調だった。たしかに、団塊世代が大量退職した現時点では、新卒の正社員就職率も小康を保っているかもしれない。しかしあとで触れるように、正社員といいながら、実体は派遣労働以下というところも数多くあるという。また、システムが生産の調整弁として派遣労働を内部に組み込んでいる以上、若者のワーキングプア問題は、これからむしろ慢性化するのではないか。

付言すれば、2人が「ロスジェネ」問題から切り離して議論していた「3年で辞める若者」問題も、市場万能主義の帰結と見ることができる。むろん、2人が指摘していたような、共同体(家族や上司など、仕事を辞めにくくさせる柵)の解体という問題もたしかにある。しかしそこまで共同体を弱体化させたのは、やはり市場万能主義である。ロスジェネ論壇の論調では、「3年で辞める若者」の多くは、企業から投資される(社員教育を受けることのできる)エリート候補でなく、使い捨ての正社員である。ロードサイドの量販店に多いパターンだが、毎日深夜帰宅で絞り取れるだけ絞り取っておいて使えなくなったら捨てればよく、しかも代わりはたくさんいる。つまり、企業の側も今は、すべての人材に手間暇かけて投資するわけではない。育てる正社員と、労働強化して、絞り取れるだけ絞り取る使い捨ての正社員を分けている。最近の若者は安易に「3年で辞める」と言われるが、規制緩和後の労働強化の現状で、今の若者の多くは「3年持たない働き方を強いられる」のが実情である。

今の若者は、ワーキングプアの実態を知っているからこそ、40代以上のフリーター第一世代(バブル世代)より正社員のへのこだわりが強い。にもかかわらず、フリーターに転落していくのであって、これは彼らの我慢の足りなさが問題なのではなく、市場万能主義的な社会システムの問題である。

政府はどのような政策的対応を取ったか―「通信と放送の融合」について② 

(マリン)
昨日の続きです。今日の投稿では、「通信と放送の融合」という状況に、政府がどのような対応をしていたかを明らかにします。主に、05年に設置された「通信と放送の在り方に関する懇談会」の成果と、残された課題について書いています。




2.政府はどのような政策的対応をとったか

2-1.竹中懇談会の設置
 通信・放送の制度改革の議論が、政府レベルで本格化するきっかけになったのは、2006年1月の「通信・放送の在り方に関する懇談会」(以下、竹中懇談会)の設置である。竹中平蔵総務大臣(当時)は、2005年10月の総務大臣就任会見で、「通信・放送の融合というのが決して議論の段階ではなくて実現の段階である、そのことを国民が実感できるような制度体制を作っていきたい」と述べ、通信・放送の融合へ向けた制度づくりへの強い意欲を早々に示していた。
 竹中は、小泉政権に入閣する以前から、日本の情報通信政策に対して強い問題意識をもっていた。2000年には、当時の森首相に「IT戦略会議」の設置を進言し 、自らもそのメンバーに入っている。また、このIT戦略会議で、竹中は当時、経済産業省の官僚で、後に政策秘書として登用することになる岸博幸と出会っていることにも注目すべきである。岸は情報通信政策に明るく、懇談会の設置を竹中に進言し、懇談会の議論を裏で支え、与党幹部との政策調整のために走り回った。
 竹中懇談会が検討課題としたのは、①放送と通信の融合時代における法体系や行政組織のあり方、②NHK改革、③NTTグループのあり方、④インターネット時代における放送業界全体のあり方の4点だった。改革の目的は、第一に、通信放送分野の急速な技術進歩の制約となっている現行の制度を改革し、技術的に可能になっている新しいサービスを国民に提供する体制を整えること。第二に、独占的市場支配力をもって通信業界に君臨するNTTを分離し、通信市場の公正競争を確保すること。第三に、不祥事や受信料未払いで批判を集めていたNHKの受信料制度、経営委員会などのガバナンス分野の改革を行うことである。この懇談会の使命は、まさに通信領域と放送領域の制度・組織を包括的に再編するということだった。
 
2-2.「通信・放送の在り方に関する政府与党合意」
 竹中懇談会は、2006年1月から6月の間に、合計14回の会合を行い、6月6日に最終報告書を公開した。そして、その報告書をもとに政府与党間で調整が行われ、06年6月20日に「通信・放送の在り方に関する政府与党合意」が成立した。
 政府与党合意では、NHK改革に関しては、NHKのガバナンス強化、チャンネル数削減の検討、受信料の引き下げと支払い義務および罰則の設定についての早急な検討を行うことが書き込まれた。また、通信放送改革に関しては、マスメディア集中排除原則の早急な緩和や、基幹放送の概念の維持を前提にして、通信と放送に関する総合的な法体系を早急に検討し、2010年までに結論を得るということ、さらに放送番組の全国へのネット配信を認め、実施は事業者の判断に委ねること、などが明記された。そして、NTT改革に関しては、NTTの組織問題を、ブロードバンドの普及状況やNTTの組織問題の中期経営戦略の動向などを見極めた上で、2010年の時点で検討を行いその後速やかに結論を得る、とされた。

2-3.政府与党合意の評価
 竹中懇談会が、NHK、NTT、民放という強い政治力を持った組織の改革に取り組み、強い抵抗の中で、懇談会の議論が政府与党合意というかたちで、政府の政策に盛り込まれたことは評価に値する。しかし、この政府与党合意の最大の問題は、「通信と放送の融合」を実現する上で、課題の一つとなっている県域免許制度の廃止に踏み込めなかったという点である(県域免許については1-3で詳述した)。
 懇談会では、県域免許制度についての是非に関しても議論が行われていたが 、最終報告書では県域免許に関する提言は明記されなかった。その背景には、放送事業者の強い抵抗がある。地方ローカル局にとって、県域免許はビジネスモデルを支える死活的な制度である。これが撤廃された場合、地方局のビジネスは成り立たなくなる。そのため、東京のキー局が系列地方局を存続させるために強く改革に抵抗したのである。この県域免許制度の撤廃は、「通信と放送の融合」において積み残された大きな政策的課題であるといえるだろう。

「通信と放送の融合」において何が課題になっているのか―「通信と放送の融合」について① 

(マリン)
 ちょー久々投稿です。マリンです。慶應SFCの授業、07年度秋学期「ネットワーク政策」で書いたレポートを掲載します。お題は「通信と放送の融合」について。ちょっと長いので、3回くらいにわけて投稿したいと思いまっす。


1.「通信と放送の融合」において何が課題になっているのか

1-1.「通信と放送の融合」とは何か
 「通信と放送の融合」とは、ブロードバンド化やデジタル化などの技術革新によって、通信事業と放送事業の境界が低くなり、通信と放送が相互に融合・連携したサービスが提供可能になったという状況を指す。これまで通信と放送のビジネスモデルは、通信=1対1、放送=1対Nとして区別されてきたが、「通信と放送の融合」時代においては、このような区別は成り立たなくなった。ブロードバンド網の整備が進んだことで、インターネット上で、個人がとった映像を不特定多数の人に配信することが可能になり、1対Nの通信が可能になった。また、放送電波がデジタル化されたことで、通信の特徴であった双方向性が放送においても実現することになった。
 このような技術革新によって、通信と放送の領域を跨いだ新たなビジネスモデルが生まれれば、経済活性化の大きな要因となる。経済の低成長からの脱却を目指すわが国にとって、「通信と放送の融合」を加速させることは、経済成長を実現するという意味で、非常に重要である。

1-2.「通信と放送の融合」を示す事例
 実際に、通信と放送の境界を超える事業の事例も出てきている。東京ローカルのUHF局であるTOKYO MXが、2006年8月からインターネット上の動画投稿サイトYoutubeに独自チャンネルを開設し、動画配信を始めた。TOKYO MXの放送電波を受信できるのは、視聴可能エリアに住む850万世帯 のみであるが、Youtubeを通じて番組をインターネットで配信をするかたちをとれば、世界中の人を視聴者にすることができる。また、YUSENグループが提供するインターネット上の動画配信サービスGyao!のように、放送局のインフラを持たずとも、コンテンツを制作する力さえあれば、不特定多数の人に動画コンテンツを配信することができるようになったことも大きな進歩である。
 また、情報通信審議会・情報通信技術分科会電波有効利用方策委員会は、2011年度に地上デジタル放送が開始されることで、電波の空きが生まれるVHF帯の「90~108MHz」 と「170~222MHz」、UHF帯の「710~770MHz」の3カ所について、「移動体向けのマルチメディア放送等の『放送』、安全・安心な社会の実現等のためにブロードバンド通信が可能な『自営通信』、需要の増大により周波数の確保が必要となる携帯電話等の『電気通信』、より安全な道路交通社会の実現に必要な『ITS(高度道路交通システム)』で使用できるようにすることが適当である」という見解を示している 。つまり、従来は放送が使用していた電波を携帯電話の事業者が使用する可能性が高いということである。このように電波を有効利用できるようになったことは、デジタル化による大きなメリットである。
 さらに、わが国は2011年度までに、ブロードバンド網のユニバーサル化と、テレビ放送におけるアナログ波の停止および地上デジタル放送への移行を完了するという方針をたてている。これらの整備が完了すれば、わが国には、世界最先端の通信・放送インフラが構築されることになる。現在、インフラ整備を前にして必要になっているのは、そのインフラを生かす世界最先端の制度である。通信・放送の融合を加速させるための政策的課題は、通信・放送の制度改革を進めることに他ならない。

1-3.「通信と放送の融合」の政策的課題は何か
 しかし、「通信と放送の融合」というべき事例が出てきている反面で、わが国の制度はこのような状況に十分に対応できていないというのが現状である。現在の制度では、放送法と通信法が完全に分かれていることに加え、通信と放送分野で9本もの法律が乱立している。そのため、技術的にもビジネス的にも提供可能となっているサービスが、旧態依然の制度によって制限されるという事態が発生しているのである。
 「通信と放送の融合」を進めるうえで、大きな制度的制約になっているのが、放送法に規定のある県域免許制度である。県域免許とは、放送法第2条2項の2に規定のある「同一の放送番組の放送を同時に受信できることが相当と認められる一定の区域」に対して与えられる放送免許のことである 。県域を越えて電波を発信することは認められていないため、地方に住む人が東京で放送されている番組を見られないということもよくある。
 ただ、現在はブロードバンド化・デジタル化が進展したことで、多くの地域では、インターネットを通してデジタル化された動画を配信することができるようになった。つまり、技術的にはインターネットを通じて全国どこでも東京の番組を視聴することが可能になりつつあるのである。 
 しかし、技術的には可能であるにもかかわらず、県域免許制度があるために放送事業者はインターネットを通した番組配信を行っていない。時代遅れの制度によって消費者が本来享受できるはずのサービスが提供されないという状況が生じている。「通信と放送の融合」時代において、国民が必要とするサービスが速やかに提供されるためには、時代に即した制度が必要なのである。
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